Log House(B)

ゲームの感想を中心にいろいろ書きます。

感想『ファミレスを享受せよ』 「他者を知る」という終わりなき娯楽

 

 

 

なあ君、ファミレスを享受せよ。
月は満ちに満ちているし ドリンクバーだってあるんだ。

 

 

 

※ネタバレを含みます。

 

 「異界のファミレスに軟禁された主人公が、同じく軟禁されている一癖ある仲間と繰り広げる奇妙な一夜の会話劇」という、アドベンチャーゲームとしてはもちろんゲーム全体として見てもトンガったコンセプトで作られた本作は、そのコンセプトにたがわず、かなりトンガった代物であった。

 

 本作は「非日常なもの」を指向しがちなゲームという媒体で、雑談交じりの会話劇を繰り広げており、だからこそ、その平凡さや身近さが逆に強い個性として表れている。

 ゲームは現実世界とは異なる別の世界を作り出すことができる媒体であり、その特性上、現実世界とは違った体験を提供することを強く指向する。最近はやりのオープンワールドというゲームジャンルなんてのはその典型で、現実離れした世界で、現実離れした見てくれの敵を、現実離れした能力を使って倒す。そんなゲームは当然楽しいに決まっている。未知の体験に好奇心がくすぐられるという感覚はどんな人間にでも備わっているからだ。

 そういうゲームと比較して本作はどうか。4人の仲間たちとドリンクを片手に、内容があったりなかったりする会話をすることで話が進んでいく。謎のファミレスについての話、相手の身の上話、そして雑談。主人公たちがおかれているこそ非日常であるものの、そこで交わされる会話は実に他愛もない。舞台こそ現実離れしているが、そこでの体験は実にありふれたものだ。

 しかし、じゃあ『ファミレスを享受せよ』は退屈なゲームなのかと聞かれたら、全くそんなことはない。一癖ある登場人物たちとの会話は実に平凡で起伏も大きくないが、そんな会話の節々から彼らの内面が少しずつ見えてくる。そしてゲーム中盤以降は、彼らの過去や秘密を知ることで、より彼らのことが身近に、リアルに、魅力的に見えてくるのだ。

 『ファミレスを享受せよ』の面白さは、それこそ現実の友人関係の面白さとかなり似ている。初めて会う人と知り合って、そして知り合いから友達になって、お互いの境遇やバックグラウンドを直接知るに至る。自分と違う他者を知り、彼らの考え方や人間性を知っていく面白さを、本作は作り出そうとしていたのだ。

 そして、そんな面白さを追求しているからこそ、『ファミレスを享受せよ』という作品には無限の奥行きが感じられるのだ。「内的宇宙(内宇宙)」なんて言葉があるように人の内面は広大で複雑で、とても解き明かせるものではない。しかし、そんな難しさがあるからこそ人を知ることは面白いのである。

 『ファミレスを享受せよ』はそんな難解で、しかし面白い「相手を知る」という行為にフォーカスを当てる。当然ゲームなので相手から得られる情報の量には限界があるのだが、遊んでいるうちに彼らには本人が話していない、あるいは本人が気づいていない側面があるのではないかと思えてきて、そういう側面を遊ぶ中で想像し、彼らのパーソナリティを補完していく。彼らの「内的宇宙」を知ろうとするのだ。

 そんな無限に続く面白さを核としているから、『ファミレスを享受せよ』はそのシンプルさにも関わらず、無限の奥行きを生み出している。コントローラーを手にしていないときでさえ、その面白さは続いていく。そういった意味では、俺はまだ『ファミレスを享受せよ』をクリアしていないのかもしれない。ファミレスでの奇妙な一夜をともに過ごした彼らに思いを馳せる、という永遠に続く娯楽の中で、もうしばらく遊んでみるつもりだ。

オープニング公開。『ペルソナ3 リロード』の圧倒的な安心感


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 先日発表された『ペルソナ3リロード』のオープニング映像、本っっっっっ当に素晴らしい。もうすでに何回も見返しては、その完成度の高さに息を漏らしている。「『ペルソナ3』とはどのような作品だったのか?」「『ペルソナ3』を今の時代に新たに送り出すのならばどのようにすべきなのか?」という命題にしっかり向き合い、原典へのリスペクトと新しい『P3』の在り方の追求の両方を大切にし制作されているのがひしひしと伝わってきて、いちファンとして大満足な代物だった。

 まず、OP曲『Full Moon Full Life』が本当によく仕上がってる。『Burn My Dread』『When The Moon's Reaching Out Stars』などの原典のBGMからリズムやフレーズを引用し『P3』としてのアイデンティティを示しながらも、シリアス・ダークな雰囲気を強く打ち出した原典のOPとは少々趣を変えて、明るさと暗さ、そして力強さが一曲の中に同居する、まさに日常と非日常、生と死を体感する『P3』らしい一曲となっている。

 特に、曲の歌詞の最後が「Burn Your Dread」でシメてあるのが本当にファンの心理をよくわかっていらっしゃる。この一節で、この曲が原典オープニング『Burn My Dread』に続く曲として、カップリング曲あるいは返歌として作られていると強く感じた。

 長らくシリーズのメインコンポーザーを務めていた目黒将司氏が今作は外れるということで少々心配していたが、こんなものをお出しされてはもう何の心配もいらないだろう。

 映像についてももう本当に素晴らしくて、まず現代の画質でより魅力的になったS.E.E.Sの面々が生き生きと動いているのが感動ものである。曲のサビで彼らがペルソナを出すシーンが特にかっこよくて、ここまでキレッキレな動きで戦う彼らが見られるのがうれしくてならない。加えて、原典のオープニング映像の演出を引用したり、色や抽象化を生かして日常の裏にある非日常の不気味さを巧みに描いていたり、原典をクリアした人ならニヤリとするであろうシーンが随所に挟んであったりと、褒められる点が多すぎる。

 …という感じで語れることはまだまだあるのだが、ここらにしておいて。原典の尊重と新しさの追求を両立し、『P3』を新たな形で送り出す。『P3R』のオープニングからはそのようなアトラスのリメイクに対する姿勢がうかがえるものだった。そして、発売まであと1か月弱あるが、私はこのオープニングを観て『P3R』には何の心配もいらないな、と思った。ここまでの仕事をしてくれているチームならば、きっと『P3』への愛と熱量に満ちた良リメイクになっているだろう、と。

 

 正直、『P3R』の初報の際、私は喜びの一方で不安を覚えていた。リメイクによって『P3』の持ち前のダークさが薄くなってしまうのではないか、という不安である。

 『P5』をスタンダードとして『P3』が生まれ変わるのはかなり喜ばしいことではあるが、スタイリッシュかつ洗練されたデザインとなっている『P5』を基準として『P3R』が作られるとなると、原典『P3』の不安感やダークさが薄まってしまうのではないか、平たく言えばかっこよくなりすぎてしまうのではないか、という心配があったのだ。

『P3』という物語は、以降のシリーズ作品に比べると生々しく、そして陰鬱な展開が多い作品である。「死を想う」を全体のテーマとして打ち出し、悲しみや恐怖や怒り、そしてそれに立ち向かい受け入れる勇気を描く。

 そのような人の命や心の根幹を扱う生々しさは『P4』『P5』にも共通して存在しているけども、『P3』はそれらに比べるとその濃度が一段階濃い。あんまり書くとネタバレになるから差し控えるが、他者との軋轢、挫折、恐怖、復讐心、後悔、罪悪感…そういったマイナスの感情が強く打ち出されている。

 そして、そんな人の複雑さを描くことを通して逆説的に人の美しさを際立たせているのが『P3』の大きな特徴である。人によっては残酷さやギスギス感から拒絶感を覚えてしまうくらいの、人間の本質への肉薄。それが『P3』とそれ以降のシリーズ作品との大きな違いであり、同時に魅力なのだ。暗いからこそ、ギスギスしているからこそ、そこからのカタルシスが大きい。

 だからこそ、『P3R』が『P5』のようにかっこよくなりすぎて暗さがスポイルされると、『P3』としての最大の魅力が損なわれてしまうのではないかと心配していたのである。

 しかし…まったくいらぬ心配だろう。それは今回のオープニング映像を観れば火を見るよりも明らかだ。きっと彼らがまた、死を乗り越える命の物語をまた見せてくれるはずだ。そして最後には、あの切なさともの悲しさにまた出会えるのだろう。2月2日が楽しみだ。

感想『ブラッシュアップライフ』 代えがたい普通の日常を描く、現実に寄り添った「非ドラマ的」なドラマ

 オンエアが終わってから本作を知り、一足遅く見終えたのだが、これはリアルタイムで見るべき作品だった、と後悔した。それくらい、『ブラッシュアップライフ』が心に残って離れない。

 この作品、正直言ってすごく地味だった。派手なシーンも強烈なイベントも、バシッと決める見せ場もほとんどもない。でもなぜか続きを見たいと思わされるような魅力があって、心に残る何かがあって、見終わったときにはこの作品が大好きになっていた。

 なんでこの作品が魅力的に映るのか、その理由が見始めて最初の頃はよくわからなかったけど、今になってみると、その魅力は「非ドラマ的なドラマ」だった点なのだと思う。

 『ブラッシュアップライフ』は思い返してみればとても奇妙な作品だった。タイムリープして自分の人生をやり直すという壮大な舞台設定を掲げておきながら、ドラマチックなイベントはほとんど劇中で起こらないし、あったとしても案外そのイベント自体を描写するのに時間をかけず、さっと流される。

 劇中で主人公たちの周りで大きな事件が立て続けに起こったりすることもない。普通のドラマだったら事件に対する主人公たちの葛藤と克服を描くことで話の縦軸を進めていくところを、本作はそのような描写から距離を置き、なんてことない日常風景の描写に一番の時間をかけていた。

 

 そのため、『ブラッシュアップライフ』はその一話の中での展開の構成もかなりイレギュラーである。

 大半のドラマは基本的には一話につき一つの大きな問題・事件を中心に展開していく。重大で、あるいは非日常で、あるいは危機的な問題や事件をその話の軸として大きく取り上げ、展開を盛りたて、視聴者のテンションを上げ、最後にそれを解決させて結ぶ。そうやって、一話の中で大きく上がって大きく下がる展開を見せることでドラマチックに見せるのが定石的だ。もちろんドラマに限らず様々な物語でこのやり方は見られるけど、ドラマにおいては特に多く見られるように思う。

 一方で『ブラッシュアップライフ』はというと、一つの大きな問題や事件を一話の中でずっと取り扱うことは稀で、むしろ短い複数の身近で日常的で身近なエピソードが一話の中に収められていて、その短いエピソード一つのなかで小さな展開の上がり下がりがあったり、別のエピソードで張られたこまごまとした伏線が次々と回収されたりする。そんな小さな展開の上がり下がりを休みなく繰り返すことで視聴者を楽しませる。

 このようなアプローチそれ自体はコメディもののアニメや漫画なんかではよく見られるものだが、これをドラマで、しかも1話の中で繰り広げるのはかなり斬新な取り組みなのではないか。最近私はドラマからは離れがちなので断言はできないが、少なくとも私の思うドラマの固定観念から本作は大きく外れている。

 とまあ、こんな感じで、本作は通常のドラマのいわゆる「ドラマチック」とは意識的に距離を置いていた。もしドラマチックにしようとしたなら、本作はそれこそ麻美がプロデューサーを務めた劇中の『ブラッシュアップライフ』のようになっていただろう。でも、そうはならなかった。『ブラッシュアップライフ』は、ドラマなのにドラマチックじゃなかったのである。

 

 さらに今作が輪をかけて奇妙なのは、普通のドラマでは考えられないレベルでリアルさにこだわっていることだ。

 時代設定に合わせた曲を週替わりでエンディングや劇中歌として(使用料という現実的な問題があるのにも関わらず)わざわざ流したり、現実に存在するさまざまな企業の施設や商品がバンバン出てきたり、劇中の会話の雰囲気があまりに日常的だったり…リアルさを演出するために時間とお金と努力をつぎ込んでいることが、一視聴者の立場であっても理解できた。

 これらのリアルさへのこだわりは、必ずしもストーリーの本筋には必要不可欠なものじゃなかった。音楽やお菓子やゲーム機や施設を実在のものにしなくても、あるいは使わなくっても、今作の物語は成立しうるだろう。日常的な本物の雑談のように会話を演じさせなくても、ストーリー自体に大きな影響はないだろう。でも、そうはならなかった。『ブラッシュアップライフ』は、それがドラマであることを忘れるほどに、あまりに現実的で日常的だった。

 

 現実的で日常的なこまごまとした出来事で展開を小さく上げ下げしていくという、いわゆるドラマの型から大きく外れた「非ドラマ的」なやり方。それが何故か本作においてはうまくハマっているのは、そもそも本作の「地元系ヒューマンコメディ」というコンセプトを描くにあたって、また「今生きているこの自分の人生」を肯定する物語を描くために、それが最善の手法だったからなのだ。

 地元系と言うからにはローカルでなければならないし、人生を肯定する物語に説得力を持たせるためには、主人公の人生を身近に感じてもらえるようにしなければならない。だから一般的なドラマのような大きな事件や問題をあまり物語には配置せず、代わりに日常や人生を感じてもらえるような身近だったりクスリと笑えたりするエピソードをちまちまと配置する。大きな一つの出来事で展開を動かすのではなく、小さな積み重ねがいつしか大きな変化を生むような展開の動かし方にしていく。

 また、身近に感じてもらえるために、共感性の高い話題やアイテムを随所に配置していく。ポケベルと公衆電話、シール交換やドラマの話題、逆転裁判Ⅱが入ったゲームボーイアドバンス、うざい教師、高校の恋バナ、近所にできたラウンドワンジャスコがイオンになった話、ガラケーの赤外線通信を使った連絡先交換…それら一つ一つにそこまで大きな威力はないけど、それらを一つ一つ丁寧に物語や演出に組み込んで、少しずつ主人公の人生にリアルさや身近さを積み上げていく。そうすることで物語に視聴者を没入させ、小さな積み重ねが大きな変化を生むような展開に説得力を持たせる。

 さらに、主人公のモノローグを中心に話を進めることで、その没入をより深める。複数人の話を展開すると話がややこしくなって没入感を削ぐので、主人公のいるところで、主人公の視点で、すべての物語が展開するようにする。一部真理がモノローグを担当した例外はあったが、それ以外はすべて麻美の視点で語られる。視聴者は麻美に乗り移ったつもりで彼女の人生や物語を身近に体感できるということだ。

 そして、身近に感じさせるために、メインキャラクターの個性は可能な限り削ぎ落していく。普通なら一つ一つのキャラに個性を持たせて立たせるものだが、どこにでもいるような親しみやすさを感じさせることが目的なので今回はそれは正しいアプローチではない。必然的にメインキャラクター4人は似た者同士な典型的仲良しグループとなり、逆に粉雪の加藤やミタコング、不倫に縁がある玲奈やぎょう虫の中岡、人生二週目のタイムリーパーなど、本筋にほぼ関わらないサブキャラクターの個性が立つ結果となった。

 しまいには「今世のやり直し」「人生二週目」という一番特徴的な要素ですら、その身近さを感じさせるためのギミックだった。地味で変わり映えない、フツーの人生こそ実は愛すべきものだ、という着地点を描くためには、一人の普通の人間の人生を描くだけでは難しい。人間とは自分が進まなかった人生や選ばなかった選択ほど魅力的に感じるものだからだ。それならば、自らの人生をやりなおす物語にして、一通りやり直しを体験させた後に主人公に自身の一番最初の人生を肯定させるものにすればいい。今作においてやり直しそれ自体は重要ではなく、その結論を導くための一つのギミックに過ぎなかった。

 という風に整理してみると、本作の「非ドラマ的」な要素は、「非ドラマ的」なコンセプトを実現するために合理的に配置されていたことがよくわかる。なるほど、確かにそうだ。最初からドラマ的なものをやろうとしてないんだから、非ドラマ的で当たり前なのである。

 

 そしてその積み重ねがあるからこそ、地味でフツーな人生を肯定するという「非ドラマ的」なコンセプトを体現した「それまでの目的を放り出して敢えて今世のやり直しを決断する」あの見せ場に説得力が出てくる。

 あの見せ場でやっていることは本来かなりリスキーなことだ。徳を積んで来世で人間になるというそれまでの目的を放り出す展開は、見せ方によっては視聴者への裏切りになりうるのでよほどの説得力がなきゃいけない。ドラマに限らず他の媒体でもそのようなことは丁寧に描写しなければ失敗しうるものだし、ましてやわかりやすさが求められる普通のテレビドラマなら、最初に提示されていた目的をいきなりたたむなんて複雑でリスクのあることはしない。

 でも、本作においてはそれは心配することはなかったんだろう。だって今作は非ドラマ的な演出でとにかく身近にリアルに話を進めてきた。視聴者側の世界に物語をぎりぎりまで近づけ、視聴者に自身を主人公に投影してもらうように工夫してきた。だったら、来世で人間になることを敢えて選ばない主人公の決断も納得してもらえるはずだと結論付けたんだろう。

 あのシーンには回想のカットインも、盛り上がるBGMも、それまであった主人公自身のモノローグもない。それなのに、その決断の理由とその重みが手に取るようにわかるし、頷かされるし、泣かされる。あの決断のワンシーンは、それまでの非ドラマ的なやり方で視聴者と物語の間の距離を近づけてきたからこそ成立したシーンなのだ。

 しかし、こんなドラマが良く放映されたものだなと思う。こんな奇抜で挑戦的なものを、ただでさえ保守的なイメージがあるテレビ向けに制作して1時間尺で放映するというのは、それなりの覚悟が必要だっただろう。そのような覚悟を決めてくれた制作人のためにも、しばらくはこの味をゆっくり咀嚼したいところだ。それこそ、同じ人生をなぞるかのように。

そろそろ「二週目」にでも行こうかと思っている。


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『ゴーストトリック』ファンが移植(HDリマスター)について思いの丈を語る記事(ネタバレなし)

ニンテンドーダイレクト:「『ゴーストトリック』のHDリマスターが今年の夏に発売決定!」

 

…え?

…は?

…What's?

おいおいおい、何を言っているんだ、こんなのが真実なわけがない。『ゴーストトリック』は名作だが、いかんせん知名度があるとはいえない。DSの作品で移植は結構手間がかかるし、リマスターを出して開発費がペイするほど売れるかは微妙ではないだろうか。

いやもちろん、俺は『ゴーストトリック』が大好きで、より多くの人にこの作品が知れ渡ること、もっと言えば現行ハードへの移植を願ってはいるものの、それが実現するとはあまり思えなかった。期待するにはあまりに知名度が低すぎる。しかも原作はタッチパネルでの操作を前提としていて、それをタッチパネルが原則的にない現行ハードに移植するのは多くの労力がかかるだろう。

これらを踏まえると…うん、夢だろう。夜更かしのせいで願望が夢に出てしまったのだ。あるいは幻覚か何かに違いない。こういう時は落ち着いて公式ツイッターを確認しよう、そうだ、嘘に決まっている、まだ笑うな、まだ期待するな…

 

 

現 実 だ と ! ? ! ? ? 

いやったああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!

やったぞ!!やった!!ついにやった!!

ゴーストトリック』が!!ついに現行ハードに移植!!再び日の目を浴びた!!

おめでとう!おめでとう!!!

カプコン!タクシュー!ありがとう!!!ありがとなああああ!!!

 

…ごほん。

 いや、知らない人にとってはこんなに叫んでる理由はよくわからないだろうけど、本当に俺やファンにとっては最高にいいニュースなんだ。だって、あの隠れた名作『ゴーストトリック』を遊んでくれる新たなプレイヤーが生まれるんだよ?あの死から始まる奇妙で謎だらけでラブリーでサイコーな一夜の追走劇を楽しんでくれる人が現れるんだよ???

この記事を読んでくれている、ゴーストトリック』をまだ遊んだことがないそこの君!どうか買って自分の手で遊んでほしい!!今から軽く解説とかあふれ出る感情の垂れ流しとかするけど、なんならこの記事をここから先読まなくたっていい。とにかくネタバレなしで!実況じゃなく自分の手で!このゲームを体験してほしいんだ!!

 

今作の魅力は大きく2つ!まずゲームシステム!幽霊になって物に「トリツク」、そしてそれを「アヤツル」ことによって動かし、目の前で死の危険にさらされている人間を救う新感覚の謎解き。人の動きや状況の変化を観察し、タイミングよく「トリツク」「アヤツル」をして、人の行動や物の動きを変えて死の運命を変える。起こしたい変化から逆算して自分の行動を考えて、その結果狙い通りの変化が起きたときの快感と言ったらもうたまらない。

そしてなんといってもストーリー!主人公「シセル」は幽霊。シセルは赤いスーツの男の死体を発見し、自分が何らかの理由で死んでしまったことを自覚するも、記憶がなくその理由が思い出せない。シセルは目の前で死にそうになっている人を救いながら、自分が何者でなぜ死んだのか、道中で出会った女警官「リンネ」と共にその謎を追い求める。謎が謎を呼び、二転三転する展開。ユーモラスながらも、カッコつけるときはバシッとカッコけてくれる魅力的なキャラクターたち。そして、すべての謎が集結する劇的なクライマックス。そのどれもが最高の水準。この作品を「DSで遊べるゲームの中でもっとも素晴らしいADV」と評していた人がいたけど、その評価は伊達じゃない。

新感覚の謎解きと、最高級のシナリオ。ゴーストトリック』は自分が遊んだゲームの中で一番最高なゲームだと、今でも思ってる。

 

…どうです?気になってきたでしょう。

この作品は発売当初、そのクオリティの良さに反してあまり話題にならず、国内での売り上げは8万本ほどにとどまって、そのままDS時代の終わりとともに埋もれてしまったゲームだった。これまで現行ハードではiOSでしか遊ぶことができず、そのiOS版も最近まではバグで一部機種で遊べない状況が続いていた。興味を持った人が遊ぼうと思っても、遊べない。このまま時の流れとともに、この作品は忘れ去られていくかもしれない、そうどこかで思っていた。思ってしまっていた。

本当にさ、半ば諦めてたんだよ。遊ぶ手段がない以上、『ゴーストトリック』がここから先広まっていくのは無理なのかもしれない。一番大好きなゲームにこんなこと言うのは嫌だけど、遊んだ俺たちしかこの作品を記憶しないのかもしれない。語り継がれていったとしても、知っている人の数はどんどん減っていくだろう。悲しいけど仕方ないことだと、そう割り切っていた。

そんな消えゆく名作『ゴーストトリック』が、HDリマスターされて、ニンテンドーダイレクトという世界で一番盛り上がるゲーム情報発表の場でお披露目された。ツイッターではトレンドに載り、未プレイの人を含む多くの人がその名を目にし、多くのファンがあの一夜を思い出した。2023年2月9日、原作の発売年である2010年から13年後。もう一度、傑作『ゴーストトリック』が発表され、話題を呼んだ。あの一夜が、Nintendo Switchで、PSで、Xboxで、Steamで、多くの人々の喝采を前に、再演される日がやってくる。

こんなに!嬉しいことが!!

他にあるかってんだ!!!

だからさ、もう一回言わせてくれ!!!

カプコン!タクシュー!開発に携わったすべてのゲームクリエイター!そして『ゴーストトリック』そのものに!

ありがとう!!!大好きだ!!!

ゴーストトリック』完走時の思い出の写真。

『Return of the Obra Dinn』の魅力

 


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『Return of the Obra Dinn』って?短く解説

 『Return of the Obra Dinn』は、19世紀初頭の東インド会社の保険調査官となって、6か月消息を絶った後に無人で帰還した謎の商船オブラディン号に乗り込み、その船に関する謎を解くゲーム。

 船の中には白骨化した死体がいくつも転がっている。なぜ彼らは死んでしまったのか?なぜ無人にも関わらずこの船は帰還したのか?この船の中で何があったのか?プレイヤーは船員全員の生死や死因を推理し損害査定書を作成することを通して、その謎に触れることになる。

 プレイヤーは不思議な懐中時計を手に謎を解く。懐中時計を死体にかざすと、その死体の「死」の瞬間の世界を探索できる。

 例えばナイフで誰かに刺された死体があったとして、その死体に時計をかざせば、ナイフで誰かに刺されたその瞬間の世界に行ける。

 人々の動きはナイフが刺さった瞬間で止まっていて、プレイヤーはその死の情報について収集できるわけである。誰が刺したのか。刺されたのは誰か。周りにいた人は誰で、被害者が刺されたときにはどこで何をしていたか。

 情報を集め終わったら、それをもとに、乗客・乗員名簿の中から被害者と加害者の名前を探し当て、被害者の死因を埋める。「ジョンはヘンリーにナイフで刺されて死んだ」というように。

 …え?名前を当てるなんて難しそうでとてもできそうにないって?大丈夫。名前を当てるためのヒントになる情報はところどころに隠されている。名簿には人命のほかにその人の国籍と役職が書いてある。「ジョン 一等航海士 イギリス出身」というように。

 一等航海士ならそれなりに立派な服装であることが推測できるし、またイギリス出身なら、誰かの死の瞬間には別室でアフタヌーンティーを楽しんだりしているかもしれない(実際にそんな人はゲーム内に出てこないが)。そういった情報を手掛かりに人の名前を埋めていけばクリアできるわけである。

今作の魅力① 視覚による謎解き

 ミステリのゲームはたいてい『逆転裁判』『ダンガンロンパ』のようなアドベンチャーゲームである。文章を読んで物語を進めて、文章によって説明されるような証拠品や手がかりを集めて、そしてその情報をもとに文章で犯人と対峙する。ゲーム内には文章があふれ、プレイヤーはその文章から情報を得て推理するわけである、

 それに対して今作は、文章から情報を得て推理するかわりに、主に視覚から情報を得て推理するのである。「この人は兵器を扱っているからその役職の人だろう」「この人は医務室にいるから医者だろうか?」「この人はドレスを着ているから明らかに船員ではないな」というように。

 そして、その視覚から得た情報をもとに人の名前を言い当てる。答えがあっていた時には達成感もひとしおだ。文章の謎解きとは違って、自分から情報を探しに行って、推理して、何人もの人の情報が乗っている名簿の中から、一人の名前を探し当てるのだから。気分はさながら、人を一度見ただけで様々なことを推理し言い当てるシャーロック・ホームズである。

 今作はミステリゲームの本流である「文章による謎解き」とは対極の「視覚による謎解き」をさせていることが、最大の魅力なのだ。

 

今作の魅力② 絶妙な難易度調整と、達成感の両立

 「私は謎解き得意じゃないから推理ゲームなんてとても…」なんて思っている人がいたら、俺はその人の耳元でこう叫ぶだろう。「うるせえ!!現実世界で謎解きなんてする能力がない人間でも謎解きができるから、推理ゲームは面白いんじゃ!!」と。

 少し話がそれるが、よい推理ゲームは決して難しい謎解きをさせるゲームではないと俺は思っている。「こんなに難しい問題を解いた俺ってすごい?」という感覚を味わえるのが良い推理ゲームなのだ。そしてその感覚を味わえるなら、問題そのものは簡単でも難しくても別にいい。

 難しい謎解きは確かにできたとき大きな達成感を感じるけれど、結局のところ、ある程度人が解けるようにできていなければ推理ゲームとしては欠陥である。推理ゲームは推理小説とは違い、受け手が自分で解けるように誘導されてなければ意味がないのだ。

 「こんなに難しい問題を解いた俺ってすごい?」という感覚を味わえるのが良い推理ゲームである。そしてその感覚を味わえるなら、問題そのものは簡単でも難しくても別にいい。プレイヤーとしては、自分が高いハードルを越えたような感覚になれてこそ、楽しめるのだから。

 だから、「すごく難しく見えるけど、イイ感じに答えにたどり着けるように御膳立てされていて、実際には見かけより難しくない問題」を扱うのが、推理ゲームにおける理想である。

 そして、今作『Return of the Obra Dinn』は、このような「外見は難しそうだけど実際は見た目より難しくない」謎解きであり、俺が今作を高く評価するのはこれが理由である。

 今作は、正解にたどり着くまでの道筋が複数用意されている点が素晴らしい。上の例でいうと、立派な格好をしているところから一等航海士であると推測して「こいつはジョンだ!」と当ててもいいし、アフタヌーンティーを楽しんでいるところを見てイギリス出身と判断して「こいつはジョンだ!」と当ててもいい。

 今作は名前を言い当てるための手がかりがたくさん用意されていて、プレイヤーはその多くの手がかりのうちの一つか二つを発見しさえすれば大体の謎は解けるようになっている。謎を解くきっかけとなる情報が多いから、一つの情報に気づかないと解けないゲームよりは難易度が下がる。

 視覚的情報から名前を当てるということ難しさを維持しながらも、たくさんの手がかりをそこかしこに隠して、それを見つけてしまえば見かけより難しくないようにするバランス。その絶妙さにうならされた。

 

まとめ

 『Return of the Obra Dinn』は、視覚による謎解きの斬新さと、絶妙な難しさによる達成感が魅力のゲーム。少しでも興味を惹かれたら、オブラディン号に乗船されてはいかがだろうか。

感想『すずめの戸締まり』 確かな覚悟と熱量を感じる快作。新海誠の価値観とメッセージ。

※『すずめの戸締まり』のネタバレを含みます。また、『君の名は。』、『天気の子』、『秒速5センチメートル』の内容に触れます。


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 平日の朝に観に行ったにもかかわらずシアターは半分ほど埋まっていて、しかも老若男女様々な人々が本作を観に来ていた。改めて新海誠作品のブランド力の強さを実感した。さすがである。

 結論から言うと、私は本作をとても気に入った。話の柱となる要素が多く、少々話の整理がうまくいっていないような印象も抱いたが、新海誠をはじめとする作り手の覚悟と熱量が伝わる良い映画だった。相変わらずの映像美と巧みなストーリー構成には安心させられたし、『天気の子』に続いて賛否両論を引き起こすであろうテーマにあえて飛びこむ覚悟に、「これこそ新海誠作品だ」と納得させられてしまった。大満足である。

 以下、過去の新海作品の概要に触れながら、感想を書いていこうと思う。

 

新海誠作品の中での本作の位置づけ

 新海誠の作品は、「どんな愛も美しく尊い」こと、そして「愛を描くのを通して人間を描く」という2つの柱があると思っている。『すずめの戸締まり』は特に後者の要素が強く出た作品だったように思う。

 彼の作品は人間の恋愛感情の美しさを肯定することをまず根源としている。恋愛感情を理由付けとして、『君の名は。』ではタイムトラベルでの過去改変を、『天気の子』では愛しい人と引き換えに世界の天気を差し出すことを肯定した。

 それらはともすれば独善的で向こう見ずな行為である。特に『天気の子』の顛末については、一人のために全体を犠牲にすることが受け入れられないという人も多くいただろうし、新海誠もそれを理解していただろう。

 しかし彼はそのうえで、美麗な作画と秀逸な演出、引き込まれるシナリオと力強いセリフでもって、「それらは全て美しく、尊く、素晴らしい」と全肯定する。「愛とは素晴らしい感情で、どのような客観的な合理性も正しさも、この感情を持った人間にはかなわない」とでも言うような、彼の作品の潔さや愚直さが、私は本当に好きなのだ。

 

 そして、愛の肯定を通して、彼の作品は人の成長や変化を描く。私が観てきた彼の作品の中で、一番この描写が顕著なのは『秒速5センチメートル』だ。幼いころから恋焦がれてきた人との心の距離が、ゆっくりと残酷に離れていく物語。それでも彼は彼女を探し続け、虚しさと痛みを背負いながら呪いのように彼女を愛してしまった。『秒速』は、その呪いのような愛を否定せず、しかしその喪失を受け止めて、彼女が遠くに行ってしまったことを受け入れて、前に進んでいけるようになる、という主人公の変化を描く物語である。

 このように整理してみると、『すずめの戸締まり』が表現することは、『君の名は。』や『天気の子』よりも『秒速』によく似ていることがわかる。災害が起こるまでは確かにそこにあった様々な人々の思いが、誰にも葬られることなく忘れ去られようとしている。その思いに引導を渡す=「戸締まり」をする役割を担う男がいた。喪失を受け入れられず前を向いて生きていけずにいる少女が、「閉じ師」であるその男と出会い、彼への恋愛感情を足掛かりに自身の喪失に決着をつける=「戸締まり」をする物語。『秒速』も『すずめの戸締まり』も、どちらも喪失からの再建を描いている。

 この物語では恋愛感情の描写こそあるものの、それはいわば舞台装置であり、この物語の本筋は主人公であるすずめの心情の変化、成長なのである。その点で、本作のタイトルは象徴的だ。『君の名は。』も『天気の子』も、意中の相手、思い人のことを示すタイトルであるのに対し、『すずめの戸締まり』は主人公の名前をタイトルに取り入れている。本作は徹底して彼女の物語なのだ。


・三本足の椅子とすずめ

 この項目で述べることは完全に私の解釈であることを前置きしておく。

 まず、本作のキーアイテムである三本足の椅子は、おそらく「喪失と再建」の象徴であろう。三本足の椅子は不安定ではあるけれどそれでも倒れず立っていられるように、喪失を経験した人は、時々失ったもののことを思い出し悲しみながらも、そのことを胸にしまいながら生きている。

 すずめは幼いころに、この世のすべての時間が存在する常世(とこよ)で、この三本足の椅子を成長したすずめ自身に渡されたことが物語終盤に明かされる。でもここで椅子を渡しているすずめもまた、幼いころに成長したすずめ自身に椅子を渡されているはずで、そこで椅子を渡したすずめも幼いころに‥‥というように、無限に続いていってしまうため、破綻する。普通に考えれば、このシーンは成り立ちえないはずなのである。

 このようにならないためには、「成長後のすずめは草太を救い、椅子を持って常世にいる」ということが不変の運命、絶対的に確定している未来である必要がある。そうでなければ椅子は渡されないはずである。幼いすずめは、将来的に草太に出会って喪失から立ち直ることを運命づけられていたのだ。

 喪失を受け入れきれず母を探し続ける幼いすずめに、成長したすずめが自分が生きてここまで来ていることを告げる。他人ではなく、辛かった過去を経験してきた自分自身に「あなたは大丈夫」と告げられるのだ。「私はすずめの明日だ」と告げ、「喪失と再建」の象徴たる三本足の椅子を託す。

 「喪失がどんなにつらくても、失ったものが戻ってこなくても、それでもあなたは大丈夫。前に進むための力はあなたの中にきっとある」。『すずめの戸締まり』において新海誠は、こういったことを伝えたかったのではないだろうか。

 


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・本作においての3・11を取り上げることの覚悟と意義

 『天気の子』に続き、本作でも新海誠は思い切ったストーリー展開や表現に挑んだ。「地震描写および、緊急地震速報を受信した際の警報音」が映画内で流れる旨の注意が、公開前に発表されたのは印象的である。その時から少々察してはいたが、やはり本作はいわゆる「震災文学」に属する作品であった。とても繊細で、やり方によっては禁忌にも触れうる難しいテーマに、正面から向き合ったのである。

 それ自体に賛否はあるだろうが、私は新海誠表現者としての覚悟は本物なのだと、今作を観て感じた。『天気の子』を観たときにもかなり思い切ったなと感じたが、本作における思い切りはそれを上回ると思う。『君の名は。』以降、日本を代表する表現者としての地位を確立してもなお、このような踏み込んだ作品を世に出す。私なんぞが言うのは何様だと思われるかもしれないが、新海誠は信用できる作り手であると本作を通して思った。

 人々の記憶から消えゆく喪失を人々に思い出させ、改めてその喪失を悼むとともに、そっと心にしまってこれからを生きていく。その機会を与える点で、震災文学には間違いなく意味があるはずである。

 ただ、そのような震災文学に触れようとは思い至らないほど、3・11の記憶は薄らいでしまった。情報が氾濫する社会の中では次々と新たなニュースが流れては消え、それらに翻弄されるうちに、徐々に震災の記憶は薄れ、話す人の数も減り、そしてついに誰もその話を聞く機会を持たなくなる。積極的に話をしたり、その話に耳を傾けようとしない限り、そのような記憶を呼び起こすことが出来なくなっていく。

 だからこそ、全国規模で公開されるエンターテイメントである映画で震災を取り扱うことに意義があるのだ。ある種不意打ち的に、思ってもみなかったところから、震災の記憶が呼び覚まされ、もう一度3・11を見つめなおす機会を持つ。新海誠の狙いはそこにあったのだろう。

 幸いなことに私はすずめのように震災で身近な誰かを失った経験を持たないため、すずめと同じ立場である人に「この作品は私を傷つけた」「メッセージの押し付けだ」「忘れたかった記憶を思い出させるな」と言われれば、何も返す言葉はない。乗り越えられるだけの強さを持つことが出来ない人、持つことが難しい人にとって、本作のメッセージは暴力的に映るかもしれない。

 しかし、作り手の側がそんなことを自覚していないはずがないのである。『天気の子』に賛否両論があった後に、それよりもさらに身近でセンシティブなテーマに触れるのは、批判にさらされることを、自分たちの作品が人の心を傷つけてしまう可能性があることを覚悟した上でないとできない。そしてその覚悟が伝わってきたからこそ、私はこの作品に大きな拍手を送りたいのだ。

 震災での喪失を経験した人が、この作品を観て何を思ったのか。何を語るのか。押し付けるなと怒るのか、勇気をもらったと感謝するのか。「思い出してしまった」と思うのか、「思い出させてくれた」と思うのか。その人が許すのであれば、ぜひ語っていただきたい。それがどのような言葉であっても、私達が互いに語りあい、聞きあうことが大切なのだろう。私にとって『すずめの戸締まり』は、それを教えてくれる作品だった。

 

『ダンガンロンパ』に愛と怒り、そして感謝を込めて。(ネタバレあり)

※ゲーム『ダンガンロンパ』シリーズ全体のネタバレを含みます

 

 プレイ前は、まさか「世の中にはこんなものがまだあったのか」と思わされることになるとは予想していなかった。「予想できない展開」だなんて風の噂で耳にしたけれど、それなりに多くの物語に触れている自負が俺にはあったので、ある程度は自分の「期待通り」「予想通り」がそこに待っているのだろうと、そう思っていた。

 しかし箱を開けてみればそれは、想像だにしない悪趣味、残酷、そして予想外のオンパレード。全体としては自分の想像通りにはほとんどならなかったし、特にオチに関しては全く自分の予想外であった。プレイ当時の俺のリアクションをまとめれば以下のようになる。

 「え、ゲームでこんなことして大丈夫なの?」「今から死ぬかもしれないキャラと仲良くさせるのやめない?死ぬ時辛いから」「このクソグマァァァ!!」「普通のミステリじゃこんな展開見られないな」「大山のぶ代女史にそんなエグい下ネタ言わすなや」「まさかこんな結末に持ち込むとは」「誰だよこんな残酷な物語作ったのは」

 「トガミビャクヤ!???」「一話目からこれかよ」「ミオダぁぁぁぁぁぁ!!」「狛枝、お前…ふざけるな…それはずるいよ…」「そんな…そんな…(頭を抱える)」

 「あ…赤松さん???」「何が『ねこふんじゃった』やねん!!!」「転子ぉぉぉぉぉぉ!!」「塩、お前だけは許さん」「王馬小吉とかいうキャラはホントによォ〜〜〜」「フィクション?…え、フィクション?本気で言ってる?」「やりやがったな制作者の野郎」

 …などなど。そんなわけで、さんざん俺は製作者の思い通りに振り回され続けた。製作者の手で磨きあげられた切れ味バツグンのシナリオに、最後まで押され続け、最後には「参りました」と敬服の礼をするしかなかった。

 いわゆる単発ゲームとして作られ、尖った作風とシナリオで絶望と希望を描いた『1』。前作の時点では想定していなかった続編だったにも関わらず、期待に完璧に答えてみせた『2』。そして前2作品を超えるため、従来のシナリオの流れに敢えて一度乗せた上で白昼堂々そこから脱却し、安直な話の流れに乗せず、二番煎じにせず、覚悟を決めて派手にコンテンツを「自爆」させた『V3』。どの作品も、制作陣がそのとき出しうるエネルギーをすべて出し切って作ったというのがひしひしと感じられて、俺は嬉しかった。

 特に『2』の5章は脱帽ものであった。シリーズの中でも随一のトリックとシナリオ、そしてなにより「ダンガンロンパにしかできない展開」が詰め込まれていて、出来が良すぎて頭を抱えた。こんなにオリジナリティにあふれているのに、その一方で伏線を綿密に用意し、描写や文脈を積み重ねて、理詰めでプレイヤーたちに絶望と言う名のオリジナリティを突きつける。

 5章プレイ後は唖然としたと同時に、すごい、なんだこれはという言葉しか出てこなかった。とんでもないゲームだ。オリジナリティに溢れすぎてる。道理で『ダンガンロンパ』の名が語り継がれる訳だ。こんなもの簡単に模倣できる訳がない。軽い気持ちで二番煎じをしようとしても、この作品の足元にも及ばないだろう。触れると火傷しそうなほどの熱量でもって、この作品は仕上げられている。

 

 しかし一方でこのゲームは、そのような独自性を持ちながらも、その独自性を支えるゲームシステムや演出などを細かく見ていくと、それが恐ろしいほどに堅実に作られていることがわかる。ダンガンロンパというオリジナリティの塊は、既出のゲームのシステムやミステリの定石などを参考にしたと思われる要素でガチガチに支えられている。

 捜査を行い、そこで得た証拠品を使って裁判で矛盾を指摘し真相を暴くのは『逆転裁判』シリーズという偉大な先輩がいるし、キャラクターとの親密度を深めることが戦闘を楽に済ませることにつながるシステムは『ペルソナ』シリーズをはじめとする数多のゲームに見られるものである。

 とんでもないオリジナリティの裏で、ダンガンロンパは実に計画的に、堅実に作られていた。このゲームはオリジナリティにフォーカスが当りがちだが、そのオリジナリティはこの堅実さに裏打ちされているからこそ強く輝いていたのだ。

 

 切れ味抜群、火傷寸前のオリジナリティと、これを支えるゲームシステムの堅実さ。その一見矛盾する2つを欲張りに両取りしたからこそ、『ダンガンロンパ』はシリーズが一応の完結を迎えて5年経った今もなお、ゲーム界の前線に立ち続けているのである。

 ダンガンロンパはさながら、「いたずら好きな影の優等生」のようである。ひねくれていて、人と同じことをしたがらない。タブー視されていることも無遠慮に口に出し、ときには人に嫌われることもある。しかしそれでいて何でも卒なくこなしてみせるので、誰も文句は言えないし、それどころか一部の人には一目置かれてすらいる、そんな子に。

 『ダンガンロンパ』は私の凝り固まったゲームへの、さらに言えばフィクションへの固定観念を、最後の最後まで木っ端微塵にぶち壊してくれた。私の安直な予想を裏切りつづけてくれた。「期待通り」には、意地でもしなかった。こんな体験は、今後生きててそうかんたんにできるものではないだろう。

 

 そして、願わくば『ダンガンロンパ』を作った彼らの新しいゲーム『超探偵事件簿レインコード』が、再び俺の期待を裏切ってくれますように。