Log House(B)

ゲームの感想を中心にいろいろ書きます。

感想『すずめの戸締まり』 確かな覚悟と熱量を感じる快作。新海誠の価値観とメッセージ。

※『すずめの戸締まり』のネタバレを含みます。また、『君の名は。』、『天気の子』、『秒速5センチメートル』の内容に触れます。


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 平日の朝に観に行ったにもかかわらずシアターは半分ほど埋まっていて、しかも老若男女様々な人々が本作を観に来ていた。改めて新海誠作品のブランド力の強さを実感した。さすがである。

 結論から言うと、私は本作をとても気に入った。話の柱となる要素が多く、少々話の整理がうまくいっていないような印象も抱いたが、新海誠をはじめとする作り手の覚悟と熱量が伝わる良い映画だった。相変わらずの映像美と巧みなストーリー構成には安心させられたし、『天気の子』に続いて賛否両論を引き起こすであろうテーマにあえて飛びこむ覚悟に、「これこそ新海誠作品だ」と納得させられてしまった。大満足である。

 以下、過去の新海作品の概要に触れながら、感想を書いていこうと思う。

 

新海誠作品の中での本作の位置づけ

 新海誠の作品は、「どんな愛も美しく尊い」こと、そして「愛を描くのを通して人間を描く」という2つの柱があると思っている。『すずめの戸締まり』は特に後者の要素が強く出た作品だったように思う。

 彼の作品は人間の恋愛感情の美しさを肯定することをまず根源としている。恋愛感情を理由付けとして、『君の名は。』ではタイムトラベルでの過去改変を、『天気の子』では愛しい人と引き換えに世界の天気を差し出すことを肯定した。

 それらはともすれば独善的で向こう見ずな行為である。特に『天気の子』の顛末については、一人のために全体を犠牲にすることが受け入れられないという人も多くいただろうし、新海誠もそれを理解していただろう。

 しかし彼はそのうえで、美麗な作画と秀逸な演出、引き込まれるシナリオと力強いセリフでもって、「それらは全て美しく、尊く、素晴らしい」と全肯定する。「愛とは素晴らしい感情で、どのような客観的な合理性も正しさも、この感情を持った人間にはかなわない」とでも言うような、彼の作品の潔さや愚直さが、私は本当に好きなのだ。

 

 そして、愛の肯定を通して、彼の作品は人の成長や変化を描く。私が観てきた彼の作品の中で、一番この描写が顕著なのは『秒速5センチメートル』だ。幼いころから恋焦がれてきた人との心の距離が、ゆっくりと残酷に離れていく物語。それでも彼は彼女を探し続け、虚しさと痛みを背負いながら呪いのように彼女を愛してしまった。『秒速』は、その呪いのような愛を否定せず、しかしその喪失を受け止めて、彼女が遠くに行ってしまったことを受け入れて、前に進んでいけるようになる、という主人公の変化を描く物語である。

 このように整理してみると、『すずめの戸締まり』が表現することは、『君の名は。』や『天気の子』よりも『秒速』によく似ていることがわかる。災害が起こるまでは確かにそこにあった様々な人々の思いが、誰にも葬られることなく忘れ去られようとしている。その思いに引導を渡す=「戸締まり」をする役割を担う男がいた。喪失を受け入れられず前を向いて生きていけずにいる少女が、「閉じ師」であるその男と出会い、彼への恋愛感情を足掛かりに自身の喪失に決着をつける=「戸締まり」をする物語。『秒速』も『すずめの戸締まり』も、どちらも喪失からの再建を描いている。

 この物語では恋愛感情の描写こそあるものの、それはいわば舞台装置であり、この物語の本筋は主人公であるすずめの心情の変化、成長なのである。その点で、本作のタイトルは象徴的だ。『君の名は。』も『天気の子』も、意中の相手、思い人のことを示すタイトルであるのに対し、『すずめの戸締まり』は主人公の名前をタイトルに取り入れている。本作は徹底して彼女の物語なのだ。


・三本足の椅子とすずめ

 この項目で述べることは完全に私の解釈であることを前置きしておく。

 まず、本作のキーアイテムである三本足の椅子は、おそらく「喪失と再建」の象徴であろう。三本足の椅子は不安定ではあるけれどそれでも倒れず立っていられるように、喪失を経験した人は、時々失ったもののことを思い出し悲しみながらも、そのことを胸にしまいながら生きている。

 すずめは幼いころに、この世のすべての時間が存在する常世(とこよ)で、この三本足の椅子を成長したすずめ自身に渡されたことが物語終盤に明かされる。でもここで椅子を渡しているすずめもまた、幼いころに成長したすずめ自身に椅子を渡されているはずで、そこで椅子を渡したすずめも幼いころに‥‥というように、無限に続いていってしまうため、破綻する。普通に考えれば、このシーンは成り立ちえないはずなのである。

 このようにならないためには、「成長後のすずめは草太を救い、椅子を持って常世にいる」ということが不変の運命、絶対的に確定している未来である必要がある。そうでなければ椅子は渡されないはずである。幼いすずめは、将来的に草太に出会って喪失から立ち直ることを運命づけられていたのだ。

 喪失を受け入れきれず母を探し続ける幼いすずめに、成長したすずめが自分が生きてここまで来ていることを告げる。他人ではなく、辛かった過去を経験してきた自分自身に「あなたは大丈夫」と告げられるのだ。「私はすずめの明日だ」と告げ、「喪失と再建」の象徴たる三本足の椅子を託す。

 「喪失がどんなにつらくても、失ったものが戻ってこなくても、それでもあなたは大丈夫。前に進むための力はあなたの中にきっとある」。『すずめの戸締まり』において新海誠は、こういったことを伝えたかったのではないだろうか。

 


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・本作においての3・11を取り上げることの覚悟と意義

 『天気の子』に続き、本作でも新海誠は思い切ったストーリー展開や表現に挑んだ。「地震描写および、緊急地震速報を受信した際の警報音」が映画内で流れる旨の注意が、公開前に発表されたのは印象的である。その時から少々察してはいたが、やはり本作はいわゆる「震災文学」に属する作品であった。とても繊細で、やり方によっては禁忌にも触れうる難しいテーマに、正面から向き合ったのである。

 それ自体に賛否はあるだろうが、私は新海誠表現者としての覚悟は本物なのだと、今作を観て感じた。『天気の子』を観たときにもかなり思い切ったなと感じたが、本作における思い切りはそれを上回ると思う。『君の名は。』以降、日本を代表する表現者としての地位を確立してもなお、このような踏み込んだ作品を世に出す。私なんぞが言うのは何様だと思われるかもしれないが、新海誠は信用できる作り手であると本作を通して思った。

 人々の記憶から消えゆく喪失を人々に思い出させ、改めてその喪失を悼むとともに、そっと心にしまってこれからを生きていく。その機会を与える点で、震災文学には間違いなく意味があるはずである。

 ただ、そのような震災文学に触れようとは思い至らないほど、3・11の記憶は薄らいでしまった。情報が氾濫する社会の中では次々と新たなニュースが流れては消え、それらに翻弄されるうちに、徐々に震災の記憶は薄れ、話す人の数も減り、そしてついに誰もその話を聞く機会を持たなくなる。積極的に話をしたり、その話に耳を傾けようとしない限り、そのような記憶を呼び起こすことが出来なくなっていく。

 だからこそ、全国規模で公開されるエンターテイメントである映画で震災を取り扱うことに意義があるのだ。ある種不意打ち的に、思ってもみなかったところから、震災の記憶が呼び覚まされ、もう一度3・11を見つめなおす機会を持つ。新海誠の狙いはそこにあったのだろう。

 幸いなことに私はすずめのように震災で身近な誰かを失った経験を持たないため、すずめと同じ立場である人に「この作品は私を傷つけた」「メッセージの押し付けだ」「忘れたかった記憶を思い出させるな」と言われれば、何も返す言葉はない。乗り越えられるだけの強さを持つことが出来ない人、持つことが難しい人にとって、本作のメッセージは暴力的に映るかもしれない。

 しかし、作り手の側がそんなことを自覚していないはずがないのである。『天気の子』に賛否両論があった後に、それよりもさらに身近でセンシティブなテーマに触れるのは、批判にさらされることを、自分たちの作品が人の心を傷つけてしまう可能性があることを覚悟した上でないとできない。そしてその覚悟が伝わってきたからこそ、私はこの作品に大きな拍手を送りたいのだ。

 震災での喪失を経験した人が、この作品を観て何を思ったのか。何を語るのか。押し付けるなと怒るのか、勇気をもらったと感謝するのか。「思い出してしまった」と思うのか、「思い出させてくれた」と思うのか。その人が許すのであれば、ぜひ語っていただきたい。それがどのような言葉であっても、私達が互いに語りあい、聞きあうことが大切なのだろう。私にとって『すずめの戸締まり』は、それを教えてくれる作品だった。